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えいえいおー。
逃げ惑う人々の中に、トバエとアリアの姿もある。時折配置されていた兵からの攻撃を交しながら、トバエは馬を走らせていた。人々が前方を塞ぐ、退いてくれと叫んでも退くわけが無い。皆、必死だった。
自宅から金を持ち出してこの異常なまでに勢いのある火災から逃れようとする人々で、街は溢れ返っている。便乗して窃盗している者達も少なからずいたのだが、誰も咎めなかった。
どのみち、この火力では直に街は燃えてしまうだろう。何故ならば消火活動をしている者がいないからだ。
最初は、居た。だがこれはただの火災ではないのだ、発生原因が今も炎を撒き散らしているのだから、消火できるわけもない。唯一、そのおぞましい魔力に対抗出来る術を持っている人物は、逃亡するしかなかった。
トバエならば、互角の魔力で消火できるかもしれない。だが、そんなことをしていては、トダシリアに捕らえられてしまう。人々を見殺しにしても良いはずは無いが、今のトバエには迫り来る魔の手から逃れるしかなかった。
数年、トダシリアと暮らしていた。だが、今日ほどあの双子の兄に恐怖したことはない。
力が増していることなど、歴然としていた。反する魔力を所持しているが、今のトダシリアの火炎を相殺できるかと言われると自信を持って返答出来ない。
トバエの背を冷たい汗が伝う、身体が小刻みに震えた。
何故、あそこまで力を増幅させたのだろう。何をしたのだろう……。
考えても仕方が無い事だと、トバエは頭を振って馬を走らせる。
「トバエ、お兄さんって」
「喋るなアリア、舌を噛む!」
トバエの怒鳴り声にアリアは口を噤んだ、最もだ。
後方で爆音が聞こえる、人々の耳を裂く様な悲鳴が響き渡る。目に染みる黒煙が、周囲を覆う。アリアは、思い切り瞳を閉じた。助けを求める人々の声に、自分は何も出来なかった。道で母を探して泣いている子が大勢居る、駆け寄ってあげたいのだが、出来ない。
何も、出来ない。
やがて、人々が押し寄せ馬では進めなくなった。トバエは舌打ちして馬から降りるとアリアの手を引いて進む。
街の出入り口である門は、先程の一箇所だ。だが、万が一の火災や襲撃に備えて、街には小さな出入り口が数箇所設けられている。緊急避難口だ、そこに人が殺到している。
このまま待っていたらトダシリアに追いつかれてしまう、身を隠しながら先程の門を目指したほうが利巧かもしれない。だが、トダシリアの目を掻い潜る事が出来るだろうか。
燃え盛っている場所は、トバエが水を駆使して消火すれば進んでいけるだろう。だが、それではトダシリアに察知されてしまいそうだ。
「どうすればいいっ」
鋭く、トバエが叫ぶ。人に押されながら、2人はただ、身を寄せ合った。長身のトバエがアリアを気遣い、腕で囲みながら抜け道を探す。冷静になれ、と。落ち着け、と。
強固な門で囲まれている街の、この構造が災いした。過去に盗賊から護るべくして作られたらしいが、災害には非常に脆い。街への抜け道は、地下への階段を伝う、そうして進んでいくと街から離れた森の小屋に出られた。そこも兵達が交代で護っている状態だが、今となっては関係ない。我先にとその地下へ進む階段を、皆が目指している。
トバエは知らない事だが、階段で押された人物が落下し、骨折していた。すでに、詰まっているのだ。
「アリア、戻ろう。壁を伝って、あの門へ戻るんだ」
「は、はい!」
トバエとアリアは、必死に人の波を掻き分けた。裏路地を進み、物音がすれば身を潜めて進むしかないと判断したトバエ。上手く、トダシリアから逃れられれば何も恐れることはないだろう。
反対方向に行きたがる2人を、簡単に通すわけもなく人々は蠢いている。呼吸もままならない状態で、それでも2人は手を握り締めて進んだ。離れては、いけないと言い聞かせて。
生きている人間が1つの場所に集中すれば、身動きが誰しもとれないだろう。
門を超えようと、梯子を持ち出したり高い場所から縄を外へと投げつけて、なんとか逃げ出そうと思案する者も居た。だが、簡単に飛び越えられる門ではない。それでもただ、待っているだけでは皆発狂しそうだったのだ。
ようやく、なんとか走れるような路地へ到達した2人は息を殺して進む。
目の前は、火の海だった。怯むアリアを抱えて、トバエは賢明に走った。身に、水の粒子を纏って。
キィン……。
ふと、何かの物音に思わずトバエは立ち止まる。金属音のようだったが、聴いた事がない澄んだ音だった。
瞳を細めて、物音が聞こえた左を見つめた。何も、なかった。
ただ、周囲と同じ様に何かが燃え盛っている光景である。けれど、確かにそこに”何かがあった”。
「トバエ?」
アリアが咳込みながら、声をかける。ようやく我に返ると、トバエは再び走り出した。
黒煙に包まれた街の上空で太陽の光が降り注いだ、それを払うかのように風が一瞬吹いた。
―――どうか、頼むから、―――
声が聞こえた気がして、トバエは再び振り返る。アリアも、眉を潜めてそちらを見た。
途端、爆音に悲鳴を上げるアリア。
「見つけた。お前のことだ、こちらへ戻ると思ってたよ」
「お、おまえ」
建物を破壊し、炎を身に纏ってトダシリアが宙に浮かんでいる。身体から、幾つもの火の玉を放出させながら愉快そうに笑っていた。
驚愕の瞳で見つめてくるトバエに、意外そうに首を傾げて笑うトダシリア。震えているアリアに視線を移した。
トバエの腕の中で、丸くなっているアリア。唇青褪め、必死にトバエに寄り縋っている。
「鬼ごっこは、飽きた。そろそろ、終わりにしよう」
まるで、遊んでいた子供が不意にそう呟くように、トダシリアは投げ捨てる。両腕を大きく広げれば、地面から火柱が現れた。幾つも幾つも、四方で火柱が上がる。2人を囲み、逃げ場を失くす様に。
鼻で笑いながら、それを満足そうに見つめているトダシリア。唇を噛締め、敗北寸前のトバエに優越感を抱いた。そして直様手に入れられるだろう、トバエの最も大事な女に恍惚の笑みを浮かべる。
「アリア、オレから離れるな!」
言うが早いか、地面から巨大な氷柱が出現する、宙に浮いているトダシリアを突き刺す勢いで何本も飛び出す。
標的を狙いながら、囲まれている火柱の一角を相殺すべく、トバエは視線を送りながら気付かれないように氷柱を二箇所に出現させた。持久戦に持ち込めば、街を焼き尽くす勢いで魔力を放出したトダシリアに勝てるのではないかと踏んでいた。再び逃げれば、勝機があるのでは、と。
けれど、万が一失敗した場合。トダシリアの能力が、トバエの想定外だった場合。
「アリア」
「はい」
妙に落ち着き払ったトバエの声に、アリアが顔を上げる。そこには、先程の狼狽しているトバエなど微塵もなかった。穏やかに、うっすらと笑みさえ浮かべていた。
「オレはアリアを置いて死にたくはない。アリアには生きていてもらいたい。けれども、アリアの傍にオレがいないことが耐えられない。居ないと護る事が出来ない」
「私は、トバエがいないとどうして良いのか解りません。……だから」
共に、死のう。二人固く手を繋ぎ、抱き合って安らかに死のう。死が2人を別つまで共に居たいと願ったのだから、それがどんな最期でも共に居られれば本望だ。
同じ想いだった事に、トバエはこの状況下ながら目頭が熱くなった。共に生きることも、死ぬ事も一緒でありたいと願えた人物に出会えたこと、そして相手も同じ想いを抱いてくれていた事。感謝した。
どんな週末を迎えようとも、それでもトバエは神に感謝した。神など、信じていなかったが。
「アリア、愛している。……アリアの笑顔を、護れなくて悪かった」
「いいえ、トバエは何時も傍にいて、私はとても安心できました。以前から、ううん、今も、護ってくれてます」
そうか……。小さくトバエは漏らす、嬉しそうに瞳を細めて柔らかな笑みを浮かべているアリアを見つめた。
顔が煤だらけであっても、目の前の妻は美しいままだ。あの日、あの村で出逢った時と同じ様にトバエを魅了する。
2人共に生き延びる事が無理だと、判断しざるを得ないこの現状。トバエはアリアを強く抱き締めながら、口元を緩ませる。トダシリアの放つ火炎が、四方から迫ってきていたがトバエは対抗しなかった。
想定外だった、異常なまでにトダシリアの魔力は増幅している。幼き頃、ほぼ同じであった筈なのに。敗北を認めるしかなかった、悔しいがアリアが傍にいる以上自分とて無茶は出来ない。
「アリア、ごめんな」
それでも、死ぬ事は不思議と怖くはない。想像を絶する灼熱に教われるだろうが、腕の中にアリアがいるというだけで安らげた。心地良ささえ感じた。
けれど。
一瞬、背に高音を感じ唇を噛締めたトバエだが、次の瞬間熱く重いものが身体に突き刺さった。鈍い、音がした。
何か解らなかった、目の前の青褪めたアリアが自分の名を呼んで発狂している様子しか解らなかった。
「馬鹿か、2人揃ってオレが殺すと思うか?」
だらり、とトバエの腕が下がる。アリアの衣服が見る見る真っ赤に染まっていく。
ようやく、唇からうめき声が漏れた。トバエの身体を炎の剣が一突きしていた、腹部から突き出た剣先には滴り落ちる鮮血。背後で呆れたようにトダシリアが呟いた。
2人に火炎が迫る中で、直様それを消去し自らの剣に取り込んで俊敏にトバエに近づき背後から刺したのだ。
2人揃って死んでしまっては、全く意味がない。欲しいものが手に入らなくなる。
つまらなそうにトダシリアは唾を地面に吐き捨てた、ゆっくりと剣を抜き取ると右脚でトバエの身体を蹴り落とす。
「トバエ! トバエ!」
泣き叫びながらその身体をアリアが抱き締めていた、腹に穴の空いたトバエの身体、瞳の光が虚ろだが意識はあるのかないのか。
「……オレ、強くなりすぎた?」
小さく零したトダシリアは、逃げもせずにトバエにしがみ付いているアリアを見下ろす。死に逝く双子の弟と、その妻。面白い構図だと思った、見ているうちに異常な興奮が込み上げてくる。
「さて、放っておけば死ぬだろう。アリアおいで、オレが今日から新しい夫だ。未亡人では辛かろう」
右手をアリアに差し出した、だが誰がその手に縋るだろうか。アリアは泣きじゃくったままその手すら見なかった、懸命にトバエに呼びかけている。
「直に、死ぬ。死人はお前に何もしてくれない。おいで、アリア。まずは何をしようか、その衣服に染み付いた血痕を洗い流そうか。近くに所有している館がある、そこへ行こう」
気にも留めずに語り続けるトダシリア、誰もその言葉を聴く事はない。
「……アリア、オレはあまり気長なほうではないんだ。夫の言う事を聞かない妻には、それ相応の仕置きが必要になるがそれでもいいのか?」
アリアの耳に、声は届かない。ヒューヒューと息をしているトバエをしっかりと抱き締め、ただ神に祈るばかりだ。アリアには、何も術がない。
「……アリア、お前。……治癒能力が備わっていないのか」
だから、そんな呟いた言葉すらアリアの耳には届かなかった。いぶかしんだ、それでいて意外そうなトダシリアの声。いつしかトダシリアが片膝つき、傍に来ていた。だが、それすらも気がつかない。構っている余裕はない。もし、トバエの生命が事切れたらば。アリアは舌を噛んで自害するつもりだった。それまでは、共に居ようと決意していた。
「行くぞ、アリア。流石にここまで暴れたのでな、オレも疲れた。休みたい、出来るならばお前の胸の中で。何色が好きだ、流行のドレスや宝石を選ぶと良い。好きな食べ物は何だ、欲しいものはあるのか? 今日から1つずつオレに教えて欲しい」
そっと、肩に手を乗せた。それでも、アリアはトバエの名を呼び続けるばかりだ。不意にトバエの瞳がトダシリアを捕らえた気がした、『彼女に、手を出すな』そう言った気がした。瞬間、喉の奥でトダシリアは笑うとトバエに寄り縋っているアリアを無理やり引き剥がす。相当力を入れないと無理だった、アリアの細い身体は大きく揺れて地面に倒れ込む。
「別れの言葉は済んだか、寛大なオレはここまで待った。……行くぞ、アリア」
「トバエを助けて!」
地面に這い蹲っていたアリアは、口の中に入った砂と身体に突き刺さった陶器の破片で正気を取り戻した。目の前に、鋭利なものが飛び込んでくる。欠けた土器だろうが、人の皮膚を刺すのには十分だ。
機転を利かせてそれを掴み取ると身体を反転し、自分の喉元に突きつける。震えながら必死にトバエに近づくようにと、足を動かす。
冷めた瞳で、トダシリアが見下ろしていた。
「……は?」
興ざめしたように眉間に皺を寄せて、多少の苛立ちを見せたトダシリア。チリリ、と空気が震えて熱を帯びたのがアリアにも解った。機嫌を損ねたのだろう。だが、それで構わない。
「と、トバエを助けてください! あ、あなたの大事な弟なのでしょう!?」
「大事じゃない、刺したのはオレだ。どうして助ける必要がある」
あきれ返り、大袈裟な溜息を吐くトダシリア。アリアの喉元にある破片が大きくぶれている、恐怖に慄いていることなど誰が見ても明らかだった。自害する前に幾らでも止められると、トダシリアは思った。
「わ、私を欲しいというならば! トバエを助けて下さい! トバエを、助けて下さるのなら、い、一緒に行きます」
隣でトバエが『駄目だ』と訴えていた、だが解るわけもない。意識が朦朧としている中でトバエとて全ての会話を認識出来ていない。けれども今ここでアリアがトダシリアにとって有利な発言をしたことだけは明確に解った。
脳の片隅で、何かの記憶が甦る。散々泣いて、床に蹲って腕を伸ばしている愛しい娘の姿が鮮明に映し出されていた。
必死に訴えるアリアを、眉を潜めて見つめるトダシリア。だが、泣きながら懇願し、今にも土下座をしそうな勢いの脅えた子羊は非常に愉快に見えてきた。
こういう趣向もありかな、と唇を動かすと無意味にマントを翻す。
「助けてやろう、アリアの願いを叶えてやろう。その代わり、今ここでオレに口付けをしてみせるが良い。それが条件だ。あ。トバエの血の香りが生臭いからな、衣服は脱ぎ捨てるように。『どうか、トバエを助けて下さい。愛しい愛しいトダシリア様。私の全てを捧げます』と言いながら口付け出来たら、全力でトバエを助けてやろう。お前に、出来るか? 出来るよな、愛しい男を救いたいんだろ? これくらい、どうってことないよな。減るもんじゃないし?」
アリアは、青褪めた。トバエ以外の男に肌を見せたことなど当然、ない。口付けなどもってのほかだ。
躊躇した。喉の奥で悲鳴を上げて、歯を鳴らすほど震えながら目の前で冷徹な笑みを浮かべているトダシリアを見上げる。
「どうした、アリア。早くしないと手遅れになるぞ? 可哀想なトバエ、アリアのせいで死ぬ破目にな」
「や、やります、やりますからっ」
言葉を被せてアリアが叫ぶ。きつく瞳を閉じるとおぼつかない指先で賢明に衣服を脱ぎ捨てた、羞恥心でトバエすら見ることが出来ない。
するり、と衣服が地面に落ちる。血液で濡れて重くなった衣服は地面に落ちた、アリアの肌にも血痕が染みて付着していた。
美しい裸体だった、見た瞬間に思わず笑いが込み上げてきそうになるトダシリアは鼻の穴を膨らませ微動だ出来ないトバエを見つめる。想像以上に、愉快で仕方がなかった。嫌悪する双子の弟は何も出来ない、ただ、自分の愛した妻が全裸で他の男に口付けする様を止めることが出来ない。
なんて、無力な。
意識があれば、もっと愉快だったろうに。小さく含み笑いをするとトダシリアはゆっくりと両腕をアリアへと伸ばす。
どんな、気持ちなのだろう。愛した女が自ら目の前で衣服を脱ぎ、最も嫌悪していた男に口付けする様子を見なければいけないとは。
「おいで、アリア。誓いの言葉を。早くしないと、トバエが死ぬぞ?」
「っ。……『わ、わたし、は。トバエを、助けて、欲しいので、こ、この身を貴方様に捧げま、す』」
「”愛する”が抜けている、やり直しだ」
縮こまり、俯きながら身体を賢明に両手で隠し呟くアリア。なんとも加虐心をそそられる。ゆっくりと、トダシリアはアリアに近づいた。涙を零しながら再び言葉を紡ぎ始めたアリアの顎に手をかけると強引に上を向かせる。
「オレの目を見て、誓え」
「わ、わたし、は、愛しい貴方様に全てを捧げます、ので、トバエをどうかお助けください」
消え入りそうな声だった。ほとんど、聴こえなかった。不服だったが、アリアが口にしただけで十分だ。言葉は口にすると威力を増す。例えトダシリアには聴こえなくとも、アリア自身を呪縛したことに違いはない。
「……口付けはどうした、アリア」
顎を揺する。
「トバエには口付けたことがあるんだろ? 同じ様にやってみろよ。毎晩寝所で強請るようにしていたんじゃないのか?」
挑発的な台詞にアリアが顔を赤らめることはない、ただ、脅えて唇を噛むだけだ。屈辱だった。
何故、愛する夫を刺し瀕死の状態に至らしめた相手に口付けをしなければいけないのか。それでも、トバエが助かる方法があるとすればこの目の前の最低な男に頼むしかないのだ。
アリアは、泣きながらそっと爪先立ちになる。愉快そうにトダシリアが軽く屈んで顔を近づけた、アリアの腰に腕を回して引き寄せる。
息の位置からある程度、唇の場所が解った。瞳を固く閉じたまま、アリアはそっと、口づける。それが唇なのかも解らなかったが。
「……不服だが、またそれは別の場所で」
声が聴こえた途端、頭部を強く押さえ込まれ悲鳴を上げそうになった唇に容赦なく舌が割り込まれた。
逃げようにも逃げられない強い力と荒々しい口付け、暴れても抑え込まれる。口内を犯す舌が一層早くなる。
「あぁ、忘れていた。トバエを助けるんだったな」
眩暈がした、脳を強打されたようだった。薄っすらと瞳をあければ、トダシリアが無邪気に笑っていた。
目が覚めたとき、見たこともない煌びやかな天井と装飾品にアリアは口を開けてしまう。何が起こったのか解らず、無意識の内に隣をまさぐった。トバエが普段ならばそこに居るはずだった。
身体中が痛い、軋む。瞳に映る光は眩く、異空間に迷い込んだようだった。
何より、トバエがいない。軽くて暖かな布団を跳ね飛ばし、巨大すぎるベッドでアリアは1人きり唖然とした。ようやく思い出す、あの出来事。頭痛がした、吐き気がした、上手く思い出せなかった。
ただ、トバエが瀕死の状態であった様子だけが鮮明に思い出されて絶叫する。
「目が覚めたのか、アリア。良かった。何が食べたい?」
数分後、トダシリアがやってきた。未だに沸き喚いているアリアを軽く持ち上げると、ソファに深々と腰掛ける。
「二日、眠っていた。唯でさえ華奢なのに、ますます痩せてしまう。何が好きだ? 甘い果実なら食べられるか? ふくよかで柔らかな胸をオレも堪能したい、痩せられては困る」
笑いながら言うトダシリアに、我に返ったアリアは悲鳴を上げた。全裸だった。身体からは甘い花々の香りが漂い、誰かに身体を洗われた事は明確である。自分の身体がこんな豊潤な香りになっているなど、慣れない。
トダシリアは傍らのテーブルに盛られていた果実から、マスカットを一粒取ると、身体を腕で隠しているアリアの唇に近づける。
「口を開けて、アリア。美味いぞ、これは」
唇に当たる、瑞々しい果実。確かにアリアは喉が渇いていた、だがこの男の言いなりになるわけにはいけないと唇を固く閉ざす。思い出せば、乱暴に唇も奪われた。それも生涯を誓った相手の意識がないとはいえ、その目の前でだ。
「やれやれ」
トダシリアは自らの口にそのマスカットを含むと、腕の中で縮こまっているアリアを面倒そうに見下ろす。弾ける甘味と潤いに何個もトダシリアはマスカットに手を伸ばしては口にした。空中にもその香りが漂い始める。
「あ、あの、トバエは。トバエは本当に無事でしょうか」
ようやく口を開いたアリアだが、口を開けばトバエだ。
大袈裟にソファに脱慮しもたれかかったトダシリアは、マスカットを何個も口に放り込みながら懇願するようなアリアの瞳を見返す。
「……約束しただろう、生きている。ただ、まだ意識はないがな。生きるか死ぬかは本人の気力次第だと医者は言っていた」
「あ、会わせてください、看病させてください!」
「無知なお前が行ってどうする、邪魔になるだけだ。オレの夫はこのオレになったのだから、オレの傍にいろ」
「ほ、ホントは、トバエを助けてないんじゃないですよね!? 私を、騙してたりしませんかっ」
「オレを愚弄するのか?」
無我夢中で叫び、喉を痛めた。トダシリアはそんなアリアをしかめっ面で見つめるばかりだ。
「生きていると言ったろう……。全く。まぁ、確かに今すぐに放りだしても構わないがな、オレは。アリア次第だ、お前の綺麗な鳴き声が聴きたいからまずは喉を潤せ」
残り少なくなったマスカットの房を摘みあげると、口を軽く開けて一粒もぎ取る。アリアの頭部を押さえて顔を近づけた、唇にマスカットが触れる。舌先でマスカットを押してくるトダシリアに、アリアは仕方なく口を軽く開けてマスカットを受け入れた。
軽く潰すと、途端口に広がる甘味。初めて食べるような、美味な味だった。
「お、美味しい」
「だろ? オレ、これ好きなんだ子供の頃から」
嬉しそうに笑ったトダシリアと、目が合った。思わず顔を背けるアリア。今の笑顔は確かに若干トバエに似ていたのだ、双子だということを忘れていた。
狩りから戻り、嬉しそうに獲物を差し出した時の笑顔。河で水浴びをし、タオルを差し出した時にはにかんだあの笑顔。何より、アリアの手料理を美味しいと何度も誉めて食べてくれた時の笑顔。
「アリアが食べてくれれば、トバエも必ず治療する。アリアにとって、何も悪いことではないだろ? さぁ」
再び、マスカットを口に含んだトダシリアの顔が近寄ってくる。躊躇しながらも、軽く身動ぎしながらも、それでもアリアは大人しくそれを受け入れた。
「いい子だ、アリア。さぁ、もっとお食べ」
素直に食べてくれたアリアに、自然とトダシリアも機嫌が良くなる。アリアの喉が動いたのを見計らい、再びマスカットを口に咥えて顔を寄せた。
トダシリアが、アリアの頭部をゆっくりと撫でる。落ち着かせるようにだろうか、それでいて、優しく微笑んでいるのだからアリアは混乱した。
似ているからといって、気を許しては!
心の奥で、叫んでいた。それでも、その仕草がとても懐かしく酷く繊細に思えてアリアは再びマスカットを口から戴く。
やがて、最後の1つになった。房を放り投げてマスカットを咥えたトダシリアと、先程と同じ様にそれを唇で受け取ったアリア。口内に入ってきた冷たい果実を潰そうとした瞬間、熱いものが入ってくる。
思わず、顔を顰めて身体を引き攣らせる。
トダシリアが覆い被さってきた、体重がかけられソファに押し倒される。混乱し足をばたつかせるが、だからどうしたというのだろうか。ささやかな抵抗は、トダシリアを面白がらせた。
二日前の記憶が甦る、あの日と同じ、乱暴でしかない口付けだった。
くぐもった声を上げ、嫌がるアリアの身体を容赦なくトダシリアの手が這う。
「二日も待ったんだ、初夜はベッドがいいか? 後で移動する、まずはここでお前の声を聴かせろ」
初夜、という言葉にアリアが悲鳴を上げた。何をしようとしているかくらい、理解出来た。
「い、いや! 止めてくださいっ、トバエ、トバエーっ」
「止めてくださいといわれても、二日前にアリアが言ったろう。『この身を捧げます』と、体力が戻ってから抱こうとしたんだが、な。アリアがうっとりとオレからの口付けを受けるから、我慢が効かなくなった。腹が減ったら言え、そこに菓子が用意してある。果物をふんだんに使った甘い甘いケーキだぞ、肉が食いたければ言うといい。持って来させる。満足するまでアリアを抱く、食べないと体力が続かないからな」
今ここで、腹が減っているとアリアが申し出ればそれは叶えられた。その間、トダシリアは手を出さなかった。伸ばす事ができたのだ。だが、抵抗を続け、逃げることしか考えられなかったアリアはそこまで頭が回らなかった。
鳥肌が立った、トバエとは違う重みだった、香りだった。顔は確かに……似ていたが。髪の色も瞳の色も、同じだった。
「トバエに、トバエと生涯を添い遂げると誓ったのです! どうか、どうか、御止めくださいっ」
「安心しろ、神からの言葉だ。『オレと生涯を遂げて問題ない』とのことだ、よかったな」
どこまで、身勝手な人! アリアは恐怖に脅えて、残忍に笑うトダシリアを見つめる。
次に目を醒ましたとき、身体の至る所に赤い無数の跡と、白濁した体液。暴れていたら押さえつけられたので両の手首は真っ赤に腫れ上がり、噛み跡も胸や太腿に何箇所か。
呆然と、アリアは自分の汚れた身体を見つめた。涙が込み上げた、陵辱された身体はもう消えることはないだろう。
「ん……アリア」
けれども。
『ん……おいで。……ほら、あったかいだろ、その、さ、うん』
『なんだ、起きていたのかアリア。おいで』
隣でトダシリアが眠っていた、肩を抱いてくれたまま眠りについていた。その寝顔が凶悪なくらいに、柔らかだった。
「あたま、いた、痛いっ」
『少し、気温が低いな。大丈夫? 2人でくっつくと、あったかいだろ。……オレ、火の精霊だし。あ、そうか、空気を温めればいいのか』
『アリアの隣で眠ると落ち着く……。木漏れ日溢れる森の中で転寝している気分になる』
激痛が走った、アリアは小さく呻いて額に手を乗せる。幻聴が聴こえる、トバエの声だったはずだが、違う声も聴こえる。違う声は紛れもなくトダシリアの声に聴こえた。
声の質は2人は似ているが、トダシリアのほうが若干幼く高い。
「ど、して? なんの、声なの!?」
『い、いや、その、こう、こうして抱きたくて忘れていたわけじゃ、ないっ。で、でも、得したかも。……笑うなよ』
『アリア、愛している。君の笑顔を護るため、オレは産まれた。何があっても、君に寄り添い願いを叶えよう』
トバエの言葉は、確かに以前言われたことがある。優しく大きな手で頬を撫でながら言ってくれる。
だが、トダシリアは。トダシリアとそんな会話をしたことなどあるわけがない、今自分は何を聴いているのだろう。
頭痛は、激しくなる一方だった。
テーブルの上に、果物ナイフが置いてあった、鈍く光るそれを虚ろに見つめるアリア。
けれども、アリアが動いた瞬間にトダシリアが優しく身体を引き寄せてその胸の中に抱き抱える。
「っふ!?」
「……行くな、アリア」
耳元で、囁かれた。体温が上がる、鼓動が速くなる。
トダシリアは起きていない、眠っている。寝言だ。だが。けれど。
微かに顔を上げて、トダシリアの寝顔を見る。
安心し、眠っているその姿は幼い頃のトバエにすら思えた。いや、トバエではない。
胸が早鐘の様に脈打つ、綺麗なその顔は、何人もの人々を死に至らしめた、残虐な男であり、最愛の夫を刺し殺した男のものだ。それでも、とても端正な顔立ちで。
「……や、やめて」
身体を奪った男だった、有無を言わさず。だが、元を正せば確かにアリアが数日前に宣言している。強引に言わされたものだが、確かにトダシリア的には合意のもとなのかもしれなかった。
何日、こうして抱かれていたのか。マスカットを口移して食べさせてもらっていたあの日から、何日が経過したのだろう。
何度も叫んで喉が嗄れる度に、トダシリアが水を飲ませてくれた。トダシリア自身も腹が減ったのか、室内に何人かが出入りしたことも記憶がある。その間は身体を見られないようにという配慮なのかアリアもシーツでくるめられ、食事をした。
覚えていない、ソファからベッドに運ばれたことすら、曖昧だ。
身体中が痛い、強引に無茶な体勢をさせられた為だろう。鮮明には思い出せないが、顔を覆い隠したくなるような、恥ずかしいことをさせられた気がする。言わされた気がする。
トバエとは、そんなことをしたことがなかった。
熟睡しているトダシリア、喉元をナイフで一突きにしたら非力なアリアとて勝てるだろう。
それでも。
「アリア……」
何度も、寝言で呟くのは、アリアの名。冷酷で残忍な男が、無邪気に、切なそうに名を呟いている。
迷い子の様で、アリアはそっと、トダシリアの背に腕を回すと優しく撫でていた。
『…………』
ゆぅらり、と。影が躍る。部屋の隅で、影が蠢く。二人を見て、蠢いていた。
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