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アニスが川で小鹿たちと遊んでいると、人間の声が聞こえてきた。
慌てて近くの木へと飛び立ち、木の葉に身を潜めて様子を伺った。
耳に届く待ちわびた声、思わず笑みが零れる、トカミエルが来たのだ。
今日は普段より少ない人数で遊びに来たようだ、その中にトリアは居ない。
「でも、ホント綺麗よね、トカミエルの指輪」
オルビスが例の如く、トカミエルの腕に自身の腕を絡ませ歩いている。
指に填められた指輪にオルビスが見惚れていると、他の仲間達に口笛を吹かれた。
首を傾げる二人に、一人の少年がオルビスの背を押し、トカミエルに抱きつかせるように仕向ける。
小さく叫んでよろめきながら、オルビスはトカミエルに正面から抱きつく。
「オルビスに指輪買ってあげたらー? よっ、ご両人っ」
「トカミエルも16歳になったもんなー、もう妻を娶ってもいいんじゃないのー?」
囃し立てる友人達に、もーっ!と手を振り上げて怒る素振りをするオルビスだが、表情は嬉しそうに照れたように笑っていた。
その様子に乾いた笑い声を出すトカミエル。
寄り添ったまま離れないオルビスに悪い気はしないのだが、それでも抱き返す、ということはしなかった。
別に嫌いなわけではないが、好きでもない。
気は合うのだろうが、恋人、となるとどうも違う。
オルビスが自分を好いてくれているのも分かるし、親達が勝手に縁談の話を持ち上げた事も知った。
金持ちの一人娘、容姿だって良い、そして何より自分を好いてくれている。
悪い話ではない、理想的な話ですらある、普通の男なら喜ぶだろう。
しかし、オルビスに抱きつかれると「違う」と思ってしまうのだ。
特にこの森へ足を運んだ時からずっと。
皆が口笛を吹き続ける中、トカミエルはぼんやりと空を見上げた。
・・・違うんだ、この子じゃないんだ。オレの、オレの恋人はこの子じゃないんだ・・・
じゃあ、誰だ?
自身に問いかけてみるが、当たり前だ、返事は帰ってこない。
ぼんやりと遠くを見つめるトカミエルを下から覗き込みながら、オルビスは唇を軽く噛み締めた。
仲は良いはずだった。
街の娘の中で一番可愛い自信もある、トカミエルに分かるように意図的に常に身体を触れ合わせても居る。
トカミエルとて、自分の気持ちに気がついているはずだ。
だが、何も行動してきてくれない。
他に誰か気になっている娘がいるのだろうか? いや、そんなはずは無い。
全力で気持ちをぶつけて来たオルビスは、最近どうにもならない嫉妬と焦りを抱いている。
はっきりと振られてはいないが、それが余計に不安を募らせ、振られた時の事を考えるとあまりにも自分が惨めな気がして。
傍にいたからこそ、分かった、分かってしまった。
友人達は「トカミエルもオルビスが好き」と思っているから、余計に性質が悪い。
オルビスとて最初はそうだった、トカミエルも自分を好きだと思っていた。
トカミエルは、自分に関心がないのだ。
周りの雰囲気で、そしてオルビスの押しで、満更でもないように合わせているだけで、見てくれない。
勝ち組で生きてきたオルビスにとって、初めての敗北感。
まだ敗北したわけではないが、こんな惨めな思いを胸にし、日々打ちのめされつつある自分、今後を考えただけで怖くて。
川で水遊びをしながら、トカミエルとオルビスは一言も口を交わさなかった。
木の上からトカミエルを見つめていたアニスは、自分の頭上の花冠を触りつつ、恨めしそうに時折背中の羽根を見る。
この羽が邪魔だった。
羽根を動かしながら、瞳を伏せてトカミエルを見る。
人間たちにはアニスのように羽根がはえていない、他は同じなのに。
そこだけ、決定的に違う。
トリアはこの羽根に気がついているはずだけれど、何も思わないのだろうか? 今度会えたら羽根について聞いてみよう。もしかしたら、自分の思い過ごしで、羽があってもなくても良いのかもしれない。
やがて来た時間も遅い為か、人間達は早々に川遊びをやめて帰宅して行った。
木から流れるように川へと浮遊しながら、アニスは川に降り立った。
再び小鹿達も顔を出した。
足を川に浸して、水の流れる音に耳を澄ませ、風光明媚なその地でアニスはある決意をした。
不意に、陽が落ちる瞬間の輝きが、川の中で更に眩い光を放っている事に気がついた。
近寄って見てみれば、何かがある。
アニスは首を傾げて水の中に手を入れると、それを拾い上げた。
「これ・・・」
銀色に輝く指輪だった。
いつも、見つめていたから分かる、トカミエルの指輪だ。
先程抜け落ちたのだろう、これを気に入っている事はアニスだって知っている事である。
「大変、きっと探してるよね」
会う口実が出来てしまった。
そう、この指輪をトカミエルに返せばいいのだ。
何処かに置いておく? ううん、見つけてもらえないかもしれない。だから。
直接、渡せば良いのだ。
川からゆっくりとアニスは上がると、手の中の指輪をそっと見つめる。
「アニス? どうかしたの?」
小鹿に話しかけられて、アニスは思わず指輪を硬く握りしめ、何でもないよ、と笑う。
後ろめたい気持ちが湧き上がる。
そう、指輪を渡したい、なんて言ったら反対されることが分かっていたから、アニスは嘘をついた。
嘘をつくのは、初めてだった。
こんな罪悪感に駆られるものだなんて知らなかった。
それでも、嘘をついてその罪悪感が胸を埋め尽くしても。
・・・嘘をつく価値はあるはずだった。
トカミエル、会えるから。
「アニスー、老樹様のとこへ行こうよーっ」
夕日の方角から椋鳥が飛んできて、肩に止まる。
早く飛び立つように促す椋鳥に、申し訳なさそうにアニスは首を横に振った。
その掌の中の指輪を、ぎゅっと握り締め、深く息を吸い込んで・・・一言。
「もう私、飛ばないの」
「え? 何で? 羽根が痛いの?」
心配そうに近寄ってくる小鹿達を撫でながら、違うよ、と笑う。
再度息を吸い込むと、勇気を振り絞って話を続ける。
「ねぇ、羽って抜けないかな?」
「・・・えぇ!? 何言ってるのアニス」
「引っ張ってみてくれないかな? これ、取れたりしない?」
「アニス・・・」
静まり返った動物たちに苦笑いして、アニスは自分で羽根を引っ張ってみる。
・・・取れないし、痛い。
「あのさ、アニス・・・」
「私、もう羽使わないの。人間は羽がないから飛べないでしょ? だから、私も飛ばないの。決めたの」
先程決意した事は、そういう事だ。
それを聞いた途端、椋鳥は産まれて初めて、大声でアニスに罵声を浴びせる。
「酷いや! 僕達よりもアニスは人間のほうが好きなんだ。なんだよ! もういいよ!! 知らないっ」
感情を剥き出しにしてそのまま飛び去る。
今までずっと一緒に過ごしてきたのに、他のところへ行きたいだって? 冗談じゃないっ。
自分達のアニスへの思いが全く伝わっていない事に腹を立て、悔しくて情けなくて・・・寂しくて。
椋鳥は大声で啼き喚きながら、夕日の空を一陣の風の様に舞う。
小鹿達も何も言わずにそのまま森の中へと消えていった。
一人、その場に取り残されるアニス。
こうなる予感はしていた。
それでも、言いたかった。
「ごめん、ね。みんなも大好きだよ。でもね、私・・・」
トカミエルに、会いたいの。
陽は落ちて、急に辺りは暗くなる。
アニスはあの花畑へと一人森を歩いた。
急に現われた雲によって空は覆いつくされて、月が姿を現さない。
暗い暗い森の中を進む。
今日に限って、森の動物達には誰にも会わなかった。
椋鳥がみんなに今の事を話して周っているのだろうか?
みんな、怒っているのだろうか?
花畑まで辿り着くと、またトリアが来ていたのだろう、花が置いてある。
アニスはその花を大事そうに胸に抱え込むと、木の下で縮こまって眠りに就いた。
明日、なんて言おう。
「これ、トカミエルのだよね。落ちてましたよ」
「川で見つけたんだよ。大事な物だよね」
「綺麗だよね、とても似合うよ」
「・・・一緒に遊んで貰えませんか?」
一人、眠りに就く瞬間まで会話の練習をする。
何度も何度も練習をする。
森の動物達とは、もう話すことが出来ないのかもしれない。
それは自分が選択した道でありそれを受け入れる覚悟をしたつもりだった。
そうしてでも、トカミエルに会いたかった。
どうしても、どうしてもトカミエルに・・・。
「トカミエルに、会いたいの」
一番最初に、トカミエルを見て、トカミエルだけを見続けたいの。
・・・名前を、呼んで下さい。
一緒に、遊んでください。
隣に居させてください。
どうか、人間ではない私を嫌わないで下さい。
「私、トカミエルの事が、とても」
好きです。
アニスは唇をそう動かすと、静かな寝息を立てて眠りへと誘われていった。
月が出ない暗闇の中、一人で指輪を握り締め、花冠を頭上に、眠り続ける。
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